2019年4月、
僕は、人生で初めて、「スリランカ」という国を訪れた。
国立公園や文化遺産、自然と調和した建築、紅茶畑・紅茶工場、スパイス農園などをローカルバス、鉄道、トュクトュクを利用しながら巡って、主に、ゲストハウスへ宿泊し、約28日間、スリランカを一人で周遊してきた。
予算が十分なかったということもあり、
初日に空港から市内へ向かう時以外は、タクシーや高速を利用せず、
ほぼ現地のローカルの人が使う移動手段やルートを利用して、普通に観光するよりも、スリランカ人の生活を身近に感じながら、旅をした。
スリランカは、とても緑豊かな国だ。
約2500年の歴史を誇り、食べ物も美味しく、数多くの魅力がある。
だが、僕がこの旅で、最も印象的だったのは、
「スリランカ人の親切さ」である。
こういう旅をしていると、より多くの現地人と、必然的に出会う。
トュクトュクに乗る時も、ドライバーと何度も交渉するし、スリランカのゲストハウスは、ホームステイみたいなもんなので、宿のオーナーと、直接話す機会も多かった。
もちろん、出会った全員が良い人ではなかったが、親切な人が多く、僕は何度も助けられた。
「人間不信」になった旅
その前に訪れた国「タンザニア」にて。
僕は、スリランカを訪れる半年前、
東アフリカに位置する「タンザニア🇹🇿」という国を訪れていた。
タンザニアは、
セレンゲティ国立公園を代表するような壮大な自然、そして、ザンジバル島のような独特な歴史ある街並みも残す素晴らしい国である。
*セレンゲティ国立公園*
だが、僕はこの国を一人旅して、
人間不信に陥った。
それはあまりにも、観光客から奪おうとする現地人が、多かったからだ。
そして、人生初の詐欺にもあった。
関連記事 : 『ダラダラ詐欺』!? タンザニアで、人生初の詐欺に遭う。
まず自分から与えるのではなく、観光客から奪おうとする人が、非常に多かったのだ。
そして、彼らと会話すると、
「国や政府は、何も助けてくれない。」
「僕たちは、貧しいんだ。」
という言葉がよく漏れてくる。
自分で自分を救おうとせず、自分以外のものに期待し、批判して、与えるよりも、奪おうとする人の多さに、正直ショックを受けた。
僕は、旅する中で、そういう人に出会う度に、タンザニア人を、
そして、人間を信用できなくなっていった。
スリランカ人は、なぜ『親切』なのか。
前述した通り、
僕は、タンザニアに行った半年後に、スリランカを訪れた。
なので、
スリランカに到着した時から、現地人を酷く警戒してしまってる自分がいた。
ちゃんと人間を観察しないと、また騙されてしまうからだ。
だが、そんな自分とは対照的に、
スリランカ人は、驚くほど、「親切な人」が多かった。
そして、そんなスリランカ人と接する度に、
最初から疑いを持って彼らと接してしまっていたことに申し訳なく感じた。
とにかく、
僕は、スリランカ人の「親切さ (ホスピタリティー)」に感銘を受けた。
それは、タンザニアとスリランカのギャップが激しかったのも、正直大きいだろう。
でも、この違いは、何なのだろうか?
僕は頭の片隅で、自然と、そのことを考え始めた。
きっと、こう思う人も多いと思う。
タンザニアの方が、貧しい国だからじゃない!?
だが、実は、
スリランカの方が、物価が安い。
*もちろん、貧しさをどう定義するかによって、変わるんだけど。*
ちょっと意外な事実かもしれない。
それでは、
なぜ、スリランカ人は、親切なのだろうか?
僕は、現地の古代遺跡を訪れたり、ローカルの人と身近に多くの時間を共にする中で、その大きな手掛かりに気が付いた。
スリランカ国民の根底にあるもの
それは、スリランカ人が、
「釈迦の教え」を大切にしていることだった。
一応、知らない人も多いと思うので、軽く触れておくと、
実は、スリランカは、「仏教国」である。
もちろん中には、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の信者も多い。
だが、国民の70%は、仏教徒だし、
かつてスリランカで約2300年続いたシンハラ王朝の国教が、仏教だったこともあり、今どの宗教を信仰してるかに関係なく、国民全体に、その精神が根付いているのだ。
*中でも特に、アヌラーダプラ周辺に住んでる人は、根強い。*
関連記事 : 約2500年以上前に、築かれた都『アヌラーダプラ』には、どんな遺跡があるの?
「日本の仏教」との違い
ちなみに、日本も同じ仏教国だ。
しかし、同じ仏教でも、
「日本の仏教」と「スリランカの仏教」は、なんか違う。
それを「大乗仏教」と「上座部仏教」という用語だけで、片付けたくはない。
僕が感じたその2つの大きな違いは、
『お釈迦様との距離感』だ。
日本人は、神社にお参りして、仏像を拝んだりするけれど、「お釈迦様」という人物を“ 人として尊敬している人 ”は、あまりいない。
日本の場合、
お釈迦様というのは、どこか遠い存在だ。
だが、スリランカ人は、
「釈迦」という人物を尊敬していて、彼の教えを大切にしている。
仏教を宗教としてよりも、お釈迦様のことを「一人の先生」として、捉えてる印象を強く受けた。
*もちろん、仏像系を拝む人もいるけれど、それはまた、大乗仏教のケースとは違い、原始仏教における在家の名残である。*
そこで僕は、人生で初めて、
お釈迦様の教えの素晴らしさに気がついた。
これを言うと、あまりピンと来ないかもしれないが、
タンザニア人って、「親切心や思いやり」を知らないんだ。
別の言葉で表現すれば、「慈悲 (じひ)」と言うのかな。
彼らには、その精神が存在しない。
彼らの辞書に、「思いやり」というものは存在しないのだ。
それは、タンザニアという国が、そういう精神を必要としなかったからかもしれないし、仏陀やイエスのような人物が過去におらず、そういう影響を受けてこなかったのも大きいと思う。
「釈迦」という人間の魅力。
僕は、スリランカの旅を経て、「釈迦」という人物に強く興味を抱いた。
・一体、「釈迦」という人物は、生前人々に、何を説いていたのか。
・本当は何を語っていたのか?
きっと、日本に伝わって来た「釈迦の教え」は、伝来する過程で、色々変化したことも多かったに違いない。
僕は、釈迦の死後に生まれた「大乗仏教」ではなくて、
釈迦が生きてる時に、彼の口から語られた言葉により近いものを知りたかったのだ。
そこで帰国後、
ある2冊の本を買った。
真理のことば (法句経)
最期のことば (涅槃経)
この詳しい感想は、また別の記事で書きたいなと思っているが、
凄くわかりやすい本だった。
仏典に関する知識があまりない初心者には、特におすすめだ。
僕は、スリランカを旅して、仏教遺跡であるアヌラーダプラやポロンナルワにて、日本で馴染みのない仏塔 (ストゥーパ) も実際に見てきたし、観光する中で、仏教とスリランカの歴史も学び、モンクという修行僧も身近で見てきたので、その本に書かれてる内容は、かなり頭に入ってきやすかった。
たぶん現代人が、「仏典の翻訳本 (岩波書店)」をいきなり読むと、95%は挫折すると思う。
まずは全体的な内容を知り、その後で、実際の仏典を読むと、よりスムーズに理解できる。
*『涅槃経』に関しては、釈迦の言葉よりも、弟子の創作した物語がメインなので、釈迦の言葉なら、「真理の言葉 (ダンマパダ)」が、おすすめ。*
最後に
『実体験』というのは、人間の活動に大きな活力を生み出す。
僕がもし、スリランカへ行ってなかったら、生涯、「釈迦」という人間に、強い興味を抱くことはなかったかもしれない。
きっと多くの日本人のように、「釈迦=仏様」で、終わっていただろう。
実際に、スリランカを旅する中で、「釈迦の教えの素晴らしさ (慈悲) を身を持って感じた」ということが、自分にとって、大きな財産となったように思う。
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